山之内橘重(ヤマノウチキツシゲ)がこの荒れ寺に通ってくるようになったのは、昨年の暮れ辺りからであった。
月の美しい晩、山中にて景色のあまりの素晴らしさに心動かされて、笛を吹いた。気づけば背後に人が立っていて、私の笛の音に耳を傾けていた。それが橘重であった。
「いや、天狗か鬼が吹いておるのかと思うたわ」
橘重は私の笛をそう評した。
不躾な男だと思ったが、その後に浮かべた笑みを見る限り悪い男ではなさそうだったので、これまで付き合いは続いている。
「おい燎真(リョウシン)、早ようせんか」
月が昇り始めた頃、ひょっこりとやってきた橘重は酒と魚を二尾たずさえていた。それを焼けと手渡されてしばらく、橘重は待ちかねているらしい。焼いた魚を器へ移して、彼のいる縁側へ向かう。
「まったく、坊主に魚を焼かせるとは…」
悪態をつきながら器を置けば、彼は悪びれた様子もなく、さっそく手を伸ばした。左手には杯を握ったまま、右手で魚の身をくずしていく。器用なことだと感心しながら、私ももう一尾の魚に手を伸ばした。それを見て、橘重がにやりと笑みを浮かべる。
「何を言うか、この生臭坊主が」
「かたちを守るだけが信仰ではない」
私がそう返せば、彼は堪えきれぬように笑った。
「まあ、真面目な坊主を相手に酒を飲んでもつまらぬ。酒の相手にするには、おぬしの様な男がよかろうよ」
「おぬしは酒の相手にするには、少々口が回りすぎるようだ。それともとうに酒が回っておるのか」
「馬鹿を言え」
そうしてしばらく酒を飲んだ。
少し欠けた月は次第に高くなって、夜空の半ばに浮かんでいる。橘重がおもむろに口を開いた。
「前から不思議に思うておったのだが」
「何だ」
「おぬしの名、燎真とは少しばかり物騒ではないか」
「ああ、そのことか」
私はひとつ頷いて答えた。
「今は剃髪しておるが、生まれつき髪の毛が火の様な朱色をしておってな、師が戒名をつけてくださる時、それで燎と」
「ははあ」
橘重は諒解したようなそうでないような声を漏らした。顎に手をやって頷く。
「確か燎には輝くという意味もあったな。名は体を表すと言うが、さもありなん」
「またその話か」
「いやな、燎真。おぬし自分では気づいておらぬかもしれぬが、おぬしの様な男が町中に下りてみろ。娘たちが放ってはおかぬぞ」
「仏門に入った身。女性など」
「つくづく勿体無い男だ」
橘重は笑い、それから膝でにじり寄ってくる。
酒盃を持ち上げようとした手を、取られた。
「さぞ美しい髪だったのだろうな」
「さて、あのように赤い髪を美しいというかどうか」
応えながら振り払おうとするが、彼はさらに力を込めてくる。
「剃髪する前に会いたかったものだ」
「…手を、」
「離さぬよ」
橘重は私の手を口元ほどの高さに持ち上げると、舌を這わせた。ぬるりとした感触に、思わず眉を寄せる。少ない明かりの中、彼の舌が紅く蠢く。
「よさぬか、橘重!」
慌てて声を荒げれば、彼は指を口に含んだ。
「橘重っ!」
含まれた指を、舌先で擽られる。覚えのある動きに、眩暈がした。
「よせ…このような、」
「今更だろう、生臭坊主が」
指を銜えたまま、橘重がにやりと笑う。
随分と性質の悪い男と知り合いになったものだと、私は知り合って何度目になるかわからぬため息を零した。
夜はまだ、長いようだ。
END
あとがき
> [2006/08/19] > [2009/01/31 加筆修正]
「生臭坊主め」という台詞を書きたいというところから書き始めた短文です。
続きがあるのですが、年齢制限した方がよさそうなので、UPするか迷っています。
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