一人の男が、床を延べて横になっている。
深夜である。
男はなかなか寝付かれず、天井の木目を数えている。
そこへスッと障子が音も無く開いて、一匹の黒猫が入ってきた。
この宿で飼っている猫だろうか。自ら障子を開くとは、完全に無いと言い切れぬとはいえ、どうにも面妖である。
男は横になったまま様子を窺っている。
黒猫は男の枕元にあった行灯に近付いた。
ぴちゃり
音が響く。黒猫が行灯の油を舐めているのだ。いよいよ恐ろしい。
ぺちゃ、ぴちゃり
猫は行灯の油を半分ほど舐めて、やっと離れた。
そのまま、僅かに開いた障子を通り抜けて外に出たかと思うと、振り返り、右の前足を伸ばした。ストンと障子が閉まった。
開けるのはともかく、自分で戸を閉めるようになれば、それはもう立派な化け猫である。
男は閉まった障子を睨みながら、そう考えた。
そんな話を、行為が終わったばかりの床の中でしたのは、相手の男が黒猫のような男だったからに違いない。
クロスケは素性の知れない流れ者で、気が向いた時にふらりとこの屋敷へ来て、また気まぐれにふらりといなくなる。その気ままさ。黒い瞳に、黒い髪の毛、黒か紺の着物を好んで着る彼は、まさに黒猫のような男だった。私は戯れに彼のことを猫のようにクロと呼んだ。
「不気味な話だね」
彼は私の髪の毛を梳きながら、そう呟いた。低い声だ。
「不気味だろう。なにせ油を舐めに来るのだから」
私が言えば、クロスケは笑った。それから、うつ伏せた私に覆いかぶさり、首筋に唇を寄せた。
「三笠は、何故猫が油を舐めに来るのか、分からないかい」
「クロは知っているのか」
「ああ、おそらく」
少し体を浮かせたクロスケの下で、私はうつ伏せから仰向けに姿勢を変えた。当然のように落ちて来た唇に、相手の背に手を回すことで応える。
「猫は本当は、もっと別のものを舐めたいのさ」
「例えば?」
問えば、彼はうっすらと笑みを浮かべた。
「…んっ」
ぴちゃりと音がするほど深く口付けられて、私は眉をしかめた。正直なところ、唇を合わせるのはあまり好きではない。
唇は一度離れ、再び首筋に落ちて来た。
「っ…あ」
強く吸われたかと思うと歯を立てられて、痛みに顔をしかめる。鉄錆のような匂いが鼻をついた。出血するほど強く噛まれたらしい。
「何をするんだ」
叱責を込めて問いかければ、クロスケは笑って「血だよ」と囁いた。
「黒猫は、血を飲みたいのだ。けれども、それが叶わぬから油を舐めるのさ」
ありえそうでもあり、なさそうでもある話である。私は眉をしかめたまま、軽くクロスケの胸を押した。何にせよ、血を舐められるのは好ましくない。
クロスケは声を出して笑った。
「冗談だよ、三笠」
「性質の悪い冗談だ」
私が言えば、クロスケは肩をすくめて、覆いかぶさっていた体をどかした。そのまま立ち上がり、床の側らに脱ぎ散らかしていた自らの黒い着物を取る。
「帰るのか」
「主人のご機嫌を損ねれば、帰るしか道はなさそうだ。猫は猫なりに気を使うものだよ」
「どの口がそれを言う」
クロスケはもう一度、声を出して笑った。笑いながらも、着物を手早く身に着けて行く。
完全に身支度を整えると、クロスケは屈み込んで、私の唇をまた吸った。
「では行くよ」
言うと、クロスケは僅かに開いたままの障子を通り抜けて外に出た。それから振り返って、右手を伸ばす。ストンと障子が閉まった。
猫は猫又になると、自由に人間に化けることが出来るようになるという。
閉まった障子を睨みながら、そう考えた。
血の匂いが鼻をさす夜である。
END
あとがき
> [2006/11/17]
黒猫の話です。
何かを舐めに来る黒猫。不気味ですよね。油を舐めに来る黒猫の話が好きなので、ちょっと小ネタなど書いてみました。
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