月の出ない夜にだけ、男は通ってくる。
牛車の音を聞いたことはないから、徒歩で通ってくるのかもしれない。胆の据わった男だ。闇が恐ろしくは無いのだろうか。妖が怖くはないのだろうか。
それを尋ねたことはない。いや、何ひとつ、あの男に尋ねたことなどないのだ。
床のきしむ音が、男の来訪を伝えた。
迎えはない。門を開けたこともない。それでも男は、月の出ない晩にかならずやってくる。
ぎしりと、すぐ側で床が鳴った。御帳台の向こうに男の気配がある。
気付かれぬよう、そっと息を吸い込む。
微かに衣擦れの音がして、視界を隔てていた布の向こうから男が姿を現した。直衣の色合いや文様、男の表情は暗くて見えない。
見えずとも、分かるような気がした。
「よい夜ですね」
男はそう言った。密やかな水の流れを想像させるような声だった。
「月はない」
「ええ、ですから」
男は微笑んだようだった。
そのままにじりよって、今にも手が触れそうなすぐ側まで近寄ってくる。
「月の出ない夜がよい夜だとは思わないが」
「朔には朔のよさがありましょう」
「例えば」
「例えば」
男の手が私の手を取った。そのまま撫でるように、袖口から入り込んでくる。
「月夜にはできぬことができる」
「このような逢瀬をか」
振り払うように手を引けば、男は微かに息を吐き出した。
「ああ、そのようなことをおっしゃらないで下さい。貴方に逢える今日を、私は心待ちにしていたのですよ」
今度は反対側の手がそっと頬に触れる。そのまま掬われるように顔を持ち上げられて、軽く口付けられた。
間近に、不思議な色合いの男の瞳が見える。吸い込まれそうだ。その瞳に誘われるように、そっと男の背に手を回すと、男が心底嬉しそうに微笑んだ。
抱き寄せられて、もう一度口を合わせる。今度は激しく口内を蹂躙された。
男の手が私の髪を乱し、乱暴に衣を外していく。
単を肩に羽織っただけの格好で、男の愛撫を受ける。口に含まれて、耐えられずに吐息を零した。
男の名前を呼んだことは無い。男については何も知らないのだ。
名はなんと言うのか。何処に住んでいるのか。何故月のない夜なのか。そして何故私なのか。
何も知らないのに、拒めない。まるで術か何かをかけられているようだ。
ふと、闇の向こう、自分を組み敷く男の顔が、鼻面が伸びて目が鋭くつり上がった、狐の顔に見えた。
END
あとがき
> [2006/04/03]
雰囲気のみの小ネタですが、いずれこの設定でひとつの話を書きたいなと考えています。
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