ホーンがクオックを気にかけるようになったのは、ずっと前のことだった。
ホーンは回遊こそしないが冬には南の海へ移動する習性があって、そのときもゆっくりと海を泳いでいた。シャチが近くを泳いでいた。そのときはただ警戒しただけだったが、今にして思えばそのシャチこそがクオックで、彼はこのときからホーンのことを狙っていたのだろう。
シャチのなかには、自分よりもはるかに大きなクジラを狩る者がいる。
その一種の伝説にも似た噂が、まさしく事実であることをホーンは身をもって知った。捕まえられたのは、彼を気にかけるようになってから何度目の旅路か、北の海と南の海の間だった。クオックの体ほどの尾びれを動かして精一杯戦ったが、彼の動きは素早く、しばらくしてホーンは観念した。
クオックは彼の背中に乗るようにして、軽く噛みつきながら笑った。それからくるりとホーンの正面に回って、もう一度笑う。ホーンの目には、クオックの目元の白いパッチが、艶かしく映った。
それ以来、ホーンの旅はゆっくりとしたものになった。
南の海へ移動する途中、どこからともなくクオックが現れてホーンの背を噛むからであった。ホーンはその手のことに関して行儀のよい種族であったので、誘われれば生真面目に応じた。その度に彼の背中は傷が増えていき、クオックは時折、それを愛しそうに舐めるのであった。
一年に一度だけ北の海と南の海の間で出会うクオックは、元気な時もあれば弱っているときもあった。彼が纏う傷の数は年々増えていった。どこかで激しくケンカをしているのだろう。もしかすると、ホーンのように彼に捕らえられたクジラが他にいるのかもしれない。
ホーンは複雑な思いでクオックの傷をながめる。すでに捕らえられたホーンにとっては、この傷だらけのシャチは愛しい存在なのである。他に自分のようなクジラがいるかもしれぬという疑惑、それは複雑な感情をホーンに与えた。けれども、その手のことに関して、ホーンはまったくもって行儀のよい種族であった。子孫を残すのに、ライバルとメスをめぐって争うことはない。彼らは、おとなしく自分の番が来るのを待つのである。彼らの考えでは、他のオスよりも先にメスと交尾する必要はなかった。なぜなら、大量の精子をもって、他のオスの精子を洗い流してしまえばよいだけだからだ。
もっとも、クオックはオス――しかも種族の違う!――であったし、何よりホーンは自分とクオックの間に子孫を残したいわけではなかった。ただ、寄り添えればよいのだ。
クオックはそんなホーンの胸のうちを知ってか知らずか、澄ました顔をしてホーンの背を噛むのである。それからホーンに凭れかかるように寄り添って泳ぎ、しばらくすると――この期間は年によって一日だったり一週間だったりした――ホーンの胸びれに軽く歯を立てる。それが別れの挨拶であった。
クオックはまったく気ままな生き物で、ホーンと共にいる間も、一日中ずっと寄り添っているときもあれば、一週間ずっと遠巻きに近くを泳いでいるだけのときもあった。けれども、自分が寝ている間にクオックがそっと近寄ってきて眼の側を舐めるのを、ホーンは知っていた。その仕草が、背を噛むときと違って優しかったので、ホーンはクオックに何も言えなくなってしまうのである。それは幸せな瞬間であった。
END
あとがき
>[2008/06/01]
クジラとシャチです。
ャチの方は、もう少し海のギャングっぽい感じにしてもよかったかな。この話はホーンを書きたくて書いた話なので、シャチの話はまた書きます。今度は擬人化かなぁ。擬人化だと、断然、クオックはギャングとか極道とかですよね。
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