いくせんのあさをこえ(へびへのよめいり)

達吉の日常

 達吉の朝は早い。
 達吉は白牙にくるまれて目覚める。達吉をくるむのは人間に化けた白牙の腕であったり、白い鱗の大蛇の姿であったりするが、とにかく達吉は傍らで寝ている白牙を起こさぬようにそっと蒲団から抜け出る。
 顔を洗うために静かに障子を開けると、水面に差し込んだ朝日が水底までゆらゆらと届いているのが見える。その中を小魚達がゆっくりと泳いでいる。中には寝ぼけているのか、屋敷の方にまで入り込んでくる魚もいる。達吉はそんな魚達に「おはよう」と声をかけて、草履をはき庭へ踏み出す。向かう先は台所だ。母屋をぐるりと回ると別の建物があり、そこが台所になっている。そこには水を入れた甕が置かれている。甕の水は、白牙がどこからか汲んでくるのだ。達吉は甕の蓋をあけ、置かれていた柄杓で水を汲んで顔を洗う。それから毎朝必ず、水を一口飲む。そうすると達吉は、腹が空かなくなるのであった。
 顔を洗い終えた達吉は、袖で簡単に顔を拭うと朝餉の支度を始める。腹は空かないが、朝餉をとることは習慣になっているからだ。けれども最近ではこの屋敷に来た頃よりも食事の量が減っている。そのうち何も食べないようになるのだろう。達吉は胡瓜を切り小皿に盛った。それから少し考えて、皿の片隅に少しだけ塩を盛る。それが今日の達吉の朝餉であった。
 達吉は胡瓜を盛った皿を手に母屋へ移動する。普段食事に使う部屋へ入ると、いつの間にか起きだした白牙が達吉を待っている。

「おはよう、達吉」
「おはよう、白牙。まだ眠っていてもいいぞ?」
「いや、平気だ。今日は水の匂いが濃い、雨になるだろう」

 白牙はそう言って、腕を組む。達吉は口の中で「そうなんだ」と呟いて、白牙の隣に腰を下ろす。白牙は達吉が朝餉を食べるのを、ただ隣に座って見ている。白牙は何も食べぬのだ。達吉がこの屋敷に来てから、白牙が何かを食べるのを見たことがない。けれども達吉がすっかり眠り込んでしまった深夜に、こっそりと食事に出かけているのだろう。
 達吉は朝餉を食べ終えると、畑作業に向かう。畑には胡瓜や水菜が植えられている。達吉が淵の外で家族と共に暮らしていた頃にはイモや米を作っていたが、腹の空かぬ達吉はこの屋敷ではそれらを育てていない。

「じゃあ行ってくるよ」
「うむ、気をつけてな」

 達吉は白牙に声をかけ、屋敷の側にある畑へ向かう。白牙は玄関まで出てきて達吉を見送るが、その声に張りがない。おそらく眠たいのだろう。達吉が農作業をしている間に白牙はもう一眠りして、達吉が帰ってくる夕方頃に起き出す。月の出る夜が彼の行動時間なのだ。
 屋敷を出た達吉は、まっすぐ畑には向かわない。毎朝必ず寄る場所がある。白牙の住処である淵の外に生えている、一本の歳経た松の木の下だ。松の木の枝は大きく広がり、根はぼこぼこと盛り上がっている。達吉はその中でも特に盛り上がった根に上って、その上で背伸びをして遠くを眺める。眺めるのは、達吉がもといた村がある方角だ。もちろん、遥か遠くにある村が見えるわけがない。それでも達吉は毎日根に上り、背伸びをして、懸命に村を眺める。
 村を眺めながら、達吉は「おはよう」と呟く。呟こうとする。けれども、今日も声は出せなかった。ただ口を動かしただけだ。達吉は唇を噛みしめて拳を握る。声は出ずとも良かった。どうせ聞く者も、答える者もない挨拶だ。
 それらが終わると、達吉はやっと畑へ向かう。日の昇っている間中、達吉は毎日畑の土を耕して畝をつくり、目立つ雑草をむしり、作物の出来具合を確認し、畑で育てられている野菜に絡まった小魚を逃してやる。
 日が暮れると屋敷へ戻る。屋敷では白牙が達吉の帰りを待っており、達吉は夕餉の支度をして食事をする。白牙はその隣に座って、達吉にあれやこれやと話しかける。今日はどんなことがあった、作物の出来はどうだ、疲れはしなかったか。達吉は笑いながらそれに答える。いつもと同じだよ、ただ胡瓜が3本ほど魚に齧られていた、今日はずいぶん疲れたから風呂に入りたい。
 白牙は笑う。唇の奥に鋭い牙が見える。姿は人間のようだけれども、白牙は達吉とは違う生き物なのだ。
 達吉が食事を終えてだらだらしている間に、白牙が風呂の準備をする。毎日湯を沸かした風呂に入ることができるのが、達吉は嬉しい。達吉は嬉々として風呂に入り、白牙はそれを待つ。
 それから二人は散歩に出る。月明かりがゆらゆらと水底まで漂っているのを見る。その明りを投げかけた月が、淵のずっと向こうで光っているのを見る。達吉が何かをぽつぽつと話す。白牙はそれを静かに聞いている。
 散歩が終わると、達吉は寝る準備をする。

「明日も早いのか」

 白牙の問いに、達吉は頷いて答える。

「ああ、雑草を抜かなくちゃ」
「そうか」

 白牙は返事と同時に達吉を腕の中に抱き込む。達吉はひんやりとした白牙の首筋に鼻先を押しつけて、目を閉じる。
 達吉の朝は明日も早い。目を覚ませば、顔を洗い、少量の朝餉を食べ、屋敷を出るだろう。そして明日も松の木の下で「おはよう」と声に出さず呟くはずだ。そうやって達吉は過ごして行く。
 白牙は隣で静かに笑っているだろう。時に人間の姿で、また時に美しい大蛇の姿で。そうして幾千の朝を越えて、達吉は白牙と同じ存在になるのだ。

END

あとがき

そういえば、達吉が家を捨てて白牙と一緒にいるということをちゃんと書いたことはなかったなぁと思って書きました。
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